2012年10月22日

『世相百姿 上』に描かれた雙六

世相百姿.JPG

 『世相百姿 上』は大正7年(1918年)出版の画集。
 タイトルどおり、当時の世相を描いたものらしい。(現物は未見なので、本当にそうかは不明)

 そこに、雙六のイラストがあり、囲碁、将棋、双六という三面が登場する。
 どうやら、大正時代、まだ双六で遊んでいる姿が見かけられたようだ。(大阪の出版社のものなので、大阪、あるいは関西でこのような光景が見かけられたという可能性が高い)


 ※2012年10月26日追記。こんな風に書いてたけれど、大正時代に出版されただけで、江戸から明治にかけてのイラストを収録した画集という可能性もあるのか。なので、以上の推察は話半分くらいに。


 囲碁と将棋が男性が描かれているのに対し、双六は女性が描かれている。
 双六盤は囲碁盤、将棋盤とあわせ、江戸時代より慣例的に嫁入り道具なっていたようだし、『新撰双六独稽古』では女性にも奨めているので、一般的に双六は女性のものというイメージがあったのかもしれない。

 
 最初の画像は書籍を白黒コピーしたものだけど、カラーが大阪商業大学商業誌博物館の文化としての将棋に掲載されている。


 
posted by 六郎 at 18:39 | Comment(0) | 遊戯史まわりの考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年10月14日

『出たらめの記』における雙六の紹介

 おしおし!
 またしても素敵な資料を見つけてしまった。

 『出たらめの記』は1915年に書かれた本。
 そこに雙六が4ページにわたって紹介されている。


 近代デジタルライブラリー:出たらめの記(雙六の博来)


 特筆すべきは筆者の親族の体験談。

 此の雙六を知らぬ人多しと見え、予の親族がある湯治場に此具を持行き、勝敗を争い、大喝して賽の目を呼びたる所に、巡査が賭博とみとめて飛び込み、勾留せむとし笑話あり。此れ二十余年前のことなり。

 意訳:この雙六を知らない人が多いとみえ、私の親族がある湯治場にこの道具を持って行って勝負し、大声でサイコロの目を叫んでいた所、巡査が賭博だと思って飛び込んできて交流したという笑い話があった。二十数年前のことである。



 1915年から20数年前なので、1890年台、あるいは1880年台の話。
 つまり、明治中頃に盤双六プレイヤーがいたという証拠なのだ!

 ただし巡査はどんな遊び方か知らなかったようだし、この文章が書かれた当時の状況も、「今の若き人々たるや盤雙六の何物なるやを知らぬ人多し」とあるので、盤双六は一般的ではない遊びだったのだろう。(さらに言うなら、若い人が知らないだけで、若くない人は結構知っていたのだ!)


 もっとも現在でもバックギャモンのことを知らない人が多い。
 そこから考えると、盤双六が実際にどれくらいの認知度だったのか不明。


 例えば、現在でも「最近は麻雀知らない人が多いよね」という言葉を聞くことがあるが、『近代麻雀誌』など、専用のマンガ誌が売られているほど遊ばれているゲームだったりするし。
 コントラクトブリッジは7000人も協会員がいるしブリッジセンターがあるし東大でも単位が取れる講義が行われているようだけど、一般にはほとんど知られていないゲームだったりするし。
 逆に中将棋は日本将棋連盟主催で名人戦が行われるなど頑張られているけど、もしかすると1000人もプレイヤーがいない超マイナーな伝統ゲームだったりするし。
 とにかく色々なケースが考えられる。(ちなみに、どの競技もけなしている意図はありません。だって、私、麻雀もコントラクトブリッジも中将棋も好きですし)


 ともあれ!
 明治中頃も遊ばれていたのは確実。
 明治末期には名手がいるほど流行していたようだし、明治時代も一部で結構遊ばれていたんじゃなかろうか。


 おおっ……。
 このブログ、盤双六史の解明に、めっちゃ貢献してるんじゃね?



 
posted by 六郎 at 11:40 | Comment(2) | 遊戯史まわりの考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年09月28日

盤双六とバックギャモンの交差点

 昨日の記事を書いた後、ふと思った。

 『世界遊戯法大全』は1907年発行。
 『仙湖遺稿集』は1910年発行。

 つまり『仙湖遺稿集』に書かれている盤双六の再流行は、『世界遊戯法大全』によって雙六=バックギャモンがが紹介されたことが原因、という可能性がありえるのではなかろうか。
 肯定する根拠は薄い状況証拠しかないが、否定する根拠はない。


世界遊戯法大全.JPG
(『世界遊戯法大全』より。雙六のルビに backgammon とあり、1907年にはすでにバックギャモンが国内に入っていたことがわかる)


 この仮説は間違いで、東京や広島での盤双六ブームが『世界遊戯法大全』での紹介以前に始まっていたとしよう。今度は、バックギャモンが認知されている頃にはまだ、盤双六は現役のゲームだったことになる。
 というのも、盤双六の遊び方を詳細に記した『新撰雙六独稽古』が1897年に出版されている。これによってそれなりの数のプレイヤーがいたとは考えられないだろうか。


 ※2012年10月14日追記『出たらめの記』に、江戸時代中期に盤双六で遊んでいた事例が紹介されている。なので、『新撰雙六独稽古』や『世界遊戯法大全』以前に盤双六は普通に遊ばれていたことがわかった。詳細は『出たらめの記』における雙六の紹介の記事を。


 これをもって「歴史的連続性があった」とまでは言えないと思うが、わずか……ほんのわずかだが、両者が交差した点があった、と言えるのではなかろうか。


 ※1 明治時代から昭和初期にかけて沢山のゲームが日本に紹介されました。その一番大きな原因は船旅だったと思っています。当時、海外を行き来する交通手段は船。数ヶ月もの間船内にいると他に何もすることがなく、いろんな人達とゲーム三昧だったようですので。バックギャモンもその一環で持ち込まれたものだと推測しています。もちろん、船の上ではゾロ目二倍ボーナスとベアリングオフありで遊んでいたに違いありません。

 ※2 ただし、上記のようにゾロ目ボーナスやベアリングオフの紹介がなかったため、バックギャモンが紹介されたとは言いがたい側面もある……のですが、実はバックギャモンのルールって世界中に色々あったりするので、ゾロ目ボーナスやベアリングオフがないからバックギャモンではない、と言うのも暴論だと思っていたりします。盤双六は大きな意味でのバックギャモンの一種であり、古来日本で流行ったバリアントルールの一つだと思うのですよ。バックギャモンのバリアントルールに関しては、Backgammon Variants のページを参照ください。我々が知っている「普通」のルールとは似ても似つかないものも沢山あります。どのルールで遊ぼうがトランプはトランプなのと同じで、12マス×2の盤と駒と骰子があればバックギャモンだと思っています
  
posted by 六郎 at 18:23 | Comment(0) | 遊戯史まわりの考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年09月27日

盤双六はいつまで遊ばれたのか?

 びっくりする内容を読んでしまった。
 それは、『仙湖遺稿集』に掲載されている雙六考
 盤双六に関しての貴重な資料であると同時に、今までの通説を覆す素晴らしい資料である。

 聞説、近年雙六の献体復興流行して名手多く出づと、然れども未だ其変遷を究めて、源流を探るもの稀なり。此書の如きは未定の稿本にして、考証なほ細微を?したりといふを得ざれど、かく雙六のみを主として編めるものは他に類例なきを珍とし、刻して之を同好に頒つ。
 明治四十三年六月


 大雑把な意訳:近年雙六が再流行して上手い打ち手(名手)が出ているけれど、まだその変遷を研究して源流を探る人は少ない。この本では完全なものでなく、考証が細微に至っているというわけではないのだけれど、雙六だけを扱って編集しているものは他に例がなく珍しいので、これを同好の人々と分かち合いたい。


 明治後期に盤双六は再流行して、名手と呼ばれる人までいたのだ!


■ 今までの通説では、江戸時代後期に衰退したとされていたが……。

 今まで、盤双六が衰退した時期は江戸時代後期とされていた。
 伝統ゲームにおける素晴らしい研究者、増川宏一さんの『すごろく』では、18世紀後半(1700年後半)の『番太日記』の文章を引用して、「この頃にはほぼ完全に廃れたのであろう」と書いている。
 また、2012年発行の『日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会』でも、明治時代の所に、「バックガムモンと記されているのは盤雙六である。升目の形がやや異なるものの盤雙六と遊びの内容は変わらなかった。歴史的社会的推移の中で完全に衰退した盤雙六に、雙陸や「西洋雙六」と名付けられても決して流行することはなかった。」と書かれている。


 でも、この反証が四点ある。

 1.新撰雙六独稽古が1897年に出版されている。この時プレイヤーは誰一人として増えなかったのか? 少なくとも著者は雙六のプレイヤーではなかったのか?

 2.森鴎外が購入した双六盤
 嫁と姑の中を取り持つために盤双六を買い与えたらしい。となると、この時代はまだ盤双六は廃れておらず普通に買えたことを示している。

 3.昭和7年(1932年)に書かれた『雲泉荘山誌 別冊すごろく』
 ここに「明治年間に東京や広島地方に流行したことがあるやうにも聞き及んでゐますが、一般には普及しなかつたらしいです。」とあり、明治時代にも少なくとも東京と広島では続けられていたことが伝聞だが書かれている。

 4.今回の『仙湖遺稿集』に掲載された雙六考
 明治時代のコレクター、民俗研究家である西澤仙湖の書をまとめたもので、すごくしっかり盤双六の考察がされており、そこに冒頭の言葉、近年盤双六が流行しているとの言葉まである。


 このブログでは、前三つの資料は確認していて……というか実際記事にしていて、盤双六が生き残っていたのは一部のものだけでほそぼそだったのかもなあ……、と思っていたけれど、『仙湖遺稿集』を読んだことで完全に考えが変わった。


 明治時代、盤双六はまだ遊ばれていたのだ!


 盤双六が遊ばれていないと語った『世界遊戯法大全』の著者松浦政泰や、『雲泉荘山誌』の著者杉浦丘園が住んでいたのは関西。
 ここから考えると、東京で遊ばれていたけれど、関西では廃れていたということになる。(近年参考にされてきたのは、この関西の資料だったということなんだと思います。特に『世界遊戯法大全』は、遊戯史研究者がこの時代ならまっさきに紐解く資料ですし。私もゲーム関連の歴史を調べる時、まず確実に読みますし。ちなみに別の伝統ゲームになりますが、古将棋の中将棋はこの逆、関西では遊ばれてたのですが関東ではまったくだったようです)


 でも、例えば関西でほとんど遊ばれていないといって、日本では滅亡したとは言いづらい。
 『仙湖遺稿集』にて流行という言葉がある以上、盤双六は明治時代も遊ばれていたとする説がより正確な認識だと考える。


■ では具体的に衰退したのはいつ?

 盤双六が衰退して遊ばれなくなったのは、……いつなんだろ。
 明治時代後期までは遊ばれていたことどころか、流行していたことという文章がある以上、1932年(昭和7年)の『雲泉荘山誌 別冊すごろく』の扱いが少し難しくなった。
 京都では遊ばれていないと書かれているだけなので、その頃もしかしたら東京で遊ぶ人たちがいたのかもしれない。
 明治末期の『仙湖遺稿集』から、昭和七年の『雲泉荘山誌 別冊すごろく』までのはニ十年くらい。その間に完全に廃れたと考えるのは難しい……、と思うんだけどありうるのかな? 
 実際、1932年の双六会には、プレイヤーが参加されていたようだし。
 
 
 2017年04月追記。
 最新の考えを「盤双六は一時消滅したの?」に書きました。
 結論からいえば、盤双六は全盛期よりも衰退はしましたが、まったく遊ばれなくなった時期はありません。
 

■ 盤双六とバックギャモンに歴史的連続性は無いか?
 
 1907年の『世界遊戯法大全』ではバックガムモンとして、1959年の『ゲームの遊び方』ではバックガモンとして、バックギャモンは日本に紹介されているので、盤双六プレイヤーとバックギャモンプレイヤーが重なった時期はあったかもしれない。紹介されているということは、紹介したいと思うくらいそれ以前には遊ばれていたということだから。(異種格闘技戦とか言ってルールを交換しあって遊んでいる姿も簡単に目に浮かぶ……)
 
 盤双六とバックギャモンの歴史的連続性は無いというのが通説だけど、両方のルールで遊んだプレイヤーはいたと思うし、この点も要検証。(と言うのも、遊びを求める人達の貪欲さはどんな時代も変わらないと思うのです。自分が好きなゲームに似たものが紹介されたら絶対にやります。断言します)
 
 盤双六プレイヤーがバックギャモンの噂を聞きつけ、試しにやってみたことは簡単に想像できる……んだけど。でも、そうなると、これまたいままでの通説とは異なって、バックギャモンの面白さが古来の盤双六を駆逐した可能性もでてくるんだよね……。そのころはもうダブリングキューブも発明されてるし。
 
 まあ、この仮説を裏付ける資料を見つけるのは難しいとおもうけどさ。
 
 
 ※盤双六の衰退期について否定する論調で書いてますが、『すごろく』や『日本遊戯史―古代から現代までの遊びと社会』は凄い本ですからね!


■ しかしまあ……。

 こんなブログで通説を覆す発見だー、と叫んでも、多分最先端の遊戯史研究者は確認してると思っていたりします。まだ発表されていないだけで。
 でも、まあ本当に新しい発見なら、盤双六や遊戯史を研究している先生方、こんど何かおごってください。
 いや、人脈ないから、誰一人として面識ないんだけども。


 
posted by 六郎 at 19:21 | Comment(0) | 遊戯史まわりの考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2012年09月24日

どうして盤双六の文献は少ないのか?

 これ、実は不思議なことではないのです。
 あまりにも一般に広がったものは説明の必要がなく、書物として残らないケースがあります。
 少し極端な例になりますが、じゃんけんやかくれんぼ。現在一般的に広く認知されたこれらの遊びは、「かくれんぼのやり方」や「はじめてのじゃんけん」として本になることはありません。
 そもそも、ノウハウ本を買うのは「それができない人」が買うのです。誰もができている場合、本になることはありません。

 日本の他の伝統ゲームにも似た例があります。
 19世紀の末ごろ登場した「軍人将棋」は20世紀初頭、爆発的な流行をみせました。

 にもかかわらず、その遊び方を解説した書物がほとんどありません。
 当時のゲームを徹底的に集め、その詳細を記している「世界遊戯法大全」ですら、「これは日清戦争の頃に出来たものかと思うが、仕組が仲々面白い所から、今は全国に普及しているので、今ここに説く必要がないが、」と記し、その内容を省略しているほどです。


 2012年09月25日追記。
 軍人将棋の駒の動かし方を詳しく書いた古書を他に見つけました。『大笑遊戯種本 : 集会余興』に掲載されています。とにかく、本当に少ないのですよ。


 軍人将棋の研究書が書かれたのは21世紀に入ってからでした。
 現在、軍人将棋のプレイヤーはほとんどいません。だからこそ、研究者はそれを次の世代に残そうと資料を集め、書に残したのです。あまりにも一般的な遊びは廃れ始めてようやく書物になるのです。

 盤双六でも同じだったりします。
 『雙六独稽古』と『雙六錦嚢抄』、『新撰雙六独稽古』は全て、遊び方を知らない人が多くなってきたからこそ書かれた書籍でした。

 逆説的に、古代から中世にかけての日本において、盤双六はそれほど浸透した遊びだったわけなのですが。 

 
posted by 六郎 at 19:00 | Comment(0) | 遊戯史まわりの考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2011年12月28日

日本盤双六&バックギャモン史

■ 盤双六の歴史

 以下は『すごろく』(増川宏一著)をベースに、様々なサイト、書籍を参考にさせていただきました。
 重要だと思った項目は随時追加していく予定です。


 ◆ 古墳時代(〜591)飛鳥時代(592〜710)奈良時代(710〜784)

 雙六(盤双六)は古墳時代から飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていたらしい。
 日本に現存する最古の双六盤は奈良時代の聖武天皇が愛用した「木画螺鈿雙六局」であり、正倉院に収められている。

  689 『日本書紀』(720)に「雙六禁断」との記述あり。
  757 養老律令(718)の中に、喪中に行なってはならないものとして「双六囲碁之属」との記述あり。


 ◆ 平安時代(794〜1192)および鎌倉時代(1192〜1333)

 雙六は日本の各地で大流行していたらしい。『枕草子』(996)や『源氏物語』(1001)の中に雙六が登場することからも推察できる。また雙六は武家の間にも広がっていたらしい。『吾妻鏡』よると、木曽義仲の息子、志水義高も雙六を愛好していたらしく、女装して脱出した際、身代わりとなった海野小太郎が偽装のために一人寝所で行なっていたのは雙六だったらしい。その他、頼朝や家来たちも双六を愛好していたらしく、頼朝主催の双六会の記録などが残っている。また日本最古の漫画とされる『鳥獣戯画』に雙六盤を運ぶ猿が描かれている。
 後白河法皇も雙六で遊んだらしく、自分の思い通りにならないものとして「鴨川の水、僧兵、双六の賽」を挙げている。

 日本最古のボードゲーム盤双六は当時最高の娯楽の一つだったようである。


  905 『延喜式』(905)に「およそ雙六は、高下を論ぜず一切禁断」とある。
  937 日本最初の百科事典『倭名類聚抄』に雙六の項目あり。
 1052 『新猿楽記』に双六に関する記述あり。


 ◆ 室町時代および戦国時代および安土桃山時代(1336〜1615)

 この時代も引き続き雙六は日本全土で遊ばれていたらしい。色々な書物に双六に関する記述が残っている。だが、囲碁や将棋は技法が蓄積されてきたのに対して雙六は大衆的な広がりにとどまった。その分賭博性が強調されるようになったらしい。
 江戸時代に近づくにつれ、雙六は次第に遊ばれなくなってきたようだ。『すごろく』では、P231にて「十六世紀の後半から十七世紀の初めにかけて、公家や僧侶の日記から雙六の記事は著しく少なくなる。」とある。

 ※室町時代に書かれたとされる『長谷雄草紙』には日本で最初の効果線(漫画の技法)が使われている。紀長谷雄が鬼と雙六勝負をした時、盤に筒を乗せた時の演出である。
 ※山科言継(1507〜1579)の日記『言継日記』では双六で遊んだとする記事が460カ所以上登場する。
 ※桃山時代の重要文化財に清水・住吉図蒔絵螺鈿西洋双六盤がある。これは日本の職人が作ったバックギャモンの折り畳み盤で、バックギャモンが二度目の上陸をした証左である。
 ※「南蛮屏風」には入港しようとする南蛮船が描かれているが、その船で雙六を打っている乗客が描かれている。(絵師がバックギャモンを知らなかったのか、あくまで雙六の絵である)


 ◆ 江戸時代(1603〜1865)

 三面(将棋、囲碁、双六)の一つであった双六も、この時期からプレイヤーが少なくなり始める。
 理由はいくつか考えられるが、江戸時代における趣味の多様化が考えられる。
 また直接のライバルとしては、よりわかりやすく、短時間で楽しめる娯楽である「歌留多(カード)」の伝来や、チンチロリンなどのサイコロ賭博の流行、囲碁や将棋の流行が挙げられるだろう。
 ちなみに、一八世紀になって海外でバックギャモンが廃れ始めた原因も、カードなどの他のゲームが流行したのが原因だとされている。賭けをする場合、お手軽な歌留多や花札を使うようになり、雙六で遊ぶ人は少なくなってきたと思われる。
 江戸時代前期はまだ大衆での人気があったようだ。絵画や風俗画、文学ならなどに雙六は登場する。井原西鶴の『好色一代男』にも雙六に絡んだ描写があり、この頃は雙六は大衆の間で説明不要の遊びだったことがわかる。(劇に説明描写なく当たり前に登場するということは、見る者もそれを知っているということである)

 なお、双六は産業として成立していたようだ。『すごろく』には、「十七世紀後半には専門の碁盤双六盤の製造業者が確立していた」と書かれてある。それを裏付けるように1714年の大阪の商業記録が引用されており、「碁盤1182、将棋盤1580、雙六盤955」とかなりの数の雙六盤(将棋には及ばないが、碁盤に肉薄している)が大阪から出荷されている。

 1811 『雙六独稽古』。
 1827 『雙六錦嚢抄』。

 江戸時代後期には遊ぶ人が少なくなってしまったようだ。
 1811年に本邦初の雙六の遊戯法を記した書籍『雙六独稽古』が書かれるが、逆に言えばその頃にはルールを書いた本を出さなければならなくなるほど、雙六の遊び方を知る人が少なくなった証拠とも言える。
 それを裏付けるように、柳亭種彦が書いた(1783〜1842)の『柳亭記』の中に、「廃れし遊びは双六なり、子幼き頃も双六をうつ者百人に一人なり、されど下り端(おりは)を知らざる童はなかりしが、近年それもまた廃れたり」とある。『雙六独稽古』の発売も競技人口減少に歯止めをかけられなかったらしい。
 ただ雙六は、江戸時代の嫁入り道具の一つとして販売され続けた。現在でもお雛様の雛道具に双六盤が入っているものもある。

 

 ◆ 明治時代〜第二次世界大戦(1868〜1945)

 遊戯史を研究している学者の通説、および現在出版されているほとんどの伝統遊戯の書物では、雙六は江戸時代以降に衰退と書かれている。
 だが、このブログではそれに異を唱えたい。
 というのも、『仙湖遺稿集』に書かれた「雙六考」の中に、「近年雙六の献体復興流行して名手多く出づ」とはっきり書かれているためである。

 『新撰雙六独稽古』が1897年に発表されており、森鴎外が双六盤を妻にプレゼントした事実があり(東京では普通に買えた商品ということになる)、『雲泉荘山誌 別冊すごろく』では「明治年間に東京と広島で流行」という言葉があり、大正に描かれた『世相百姿 上』には雙六で遊ぶ女性の姿が描かれていることから、江戸時代以降、明治から大正時代になっても、雙六は遊び継がれていた事実がある。


 1897 『新撰雙陸独稽古』
 1907 『世界遊戯法大全』に雙六の項目あり。backgammonのルビがふられる。
 1910 『仙湖遺稿集』にて「近年雙六の献体復興流行して名手多く出づ」とある。
 1932 京都の好事家杉浦丘園が宝鏡寺にて大規模な双六会を行う。


 『雲泉荘山誌 別冊 すごろく(未定稿)』を読む限り、昭和7年ごろにはプレイヤーはだいぶいなくなっており、好事家があえて盤や石を集めて会を開く感じだったようだ。(ただし、これは関西圏だけの話かもしれない。『仙湖遺稿集』では、明治末期に流行していたと書かれている。関西と関東で盤双六の普及度がものすごく異なってしまい、それにより認識に差が出ている可能性もある。もっとも、大正時代に花札と麻雀の超特大ブームが来るので、そこで関西・関東ともに、一気にプレイヤーが少なくなった可能性は否めないのだが)


 ◆ 戦後〜現在(1945〜2011)

 盤双六研究では、1955年に『大和文化研究』の中で『雙六考』が、1961年に『一月の京都 古代遊戯雙六の話』が発表された。
 バックギャモンでは、1959年の『ゲームの遊び方』で大きく紹介されている。
 
 商業的にはテンヨーによるバックギャモンの販売、そして日本バックギャモン協会の創立が大きい。バブル期にはプールバーに行けばバックギャモンボードが置いてあり、そこで遊ぶ光景がよく見られたようだ。

 1955 『大和文化研究(第三巻第五号)』の『雙六考』。
 1959 『ゲームの遊び方』の中にバックギャモンの解説あり
 1961 『一月の京都 古式遊戯 雙六の話』
 1973 テンヨーがバックギャモンの発売を始める。
 1973 日本バックギャモン協会創立。
 1974 『ドミノとバックギャモン』出版。
 1974 バックギャモン日本選手権開催。
 1979 『バックギャモンブック』出版。
 1982 『バックギャモン』出版。
 1988 『図解早わかりバックギャモン』出版 
 1994 盤聖戦、王位戦の開催。
 1995 名人戦、ジャパンオープンの開催。
 1995 『すごろく』が出版される。
 2009 モナコの世界選手権で望月正行さんが優勝。
 2011 モナコの世界選手権で鈴木琢光さんが優勝。
 2011 モナコの世界選手権団体戦で日本チームが優勝。
 2012 モナコの世界選手権で景山充人さんが準優勝。
 2012 『バックギャモン入門』出版。


 
posted by 六郎 at 21:45 | Comment(0) | 遊戯史まわりの考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする